山で遊ぶ  (今もって山なんか登ったことない、という人たちに捧げる)

これは生まれて初めての山登りが三峰山だった還暦を過ぎたオジサンたちの記録である

平成~令和と跨いだ今年の10連休、大阪の中学時代の同級生3人が我が家に集まった。学生生活を終え、それぞれがそれぞれの道を歩み始めると共にお互い疎遠になっていった。私が東京からこの飯高町に移住してきたコトを風のウワサに聞きつけて、大阪から三重なら遠くはない一度訪ねてみようと、ひとりの友人がやって来たのが6年余り前。以来他の友人2人を誘って毎年GW・盆休み・年の暮れと年に3回飯高町を訪れるようになった。彼らは現在、大阪・神戸・京都に居を構えているが高見トンネルを抜けて2時間程度でやってくる。さすがに日帰りはキツイのか我が家に1泊するのが恒例となった。接待側の私は、彼らをあちこち案内しなければいけなくなった。とりあえずは伊勢神宮から始めて、伊勢志摩・鳥羽、鈴の屋・御城番屋敷などの松阪市街、尾鷲の港町、桜井の大神神社…。蓮ダム・珍布峠・深野の棚田・荒滝のツツジ祭り・波瀬の泰運寺…。自身が不慣れなこの土地を紹介するのだから…、近所の人に「どっかええとこ、ないですか?」と尋ねる始末だった。そんなあるときのことである。

「なあて、テツ。あの向こうの山、何て言うねん?」「手前が高鉢山、奥が三峰山や」「奥の山で、どれくらいあんねん?」「センニサンビャクちゃうか」「登れるんか?」「そら、登れるやろ。登山口、ウチから近いし」「いっぺん登ってみいひんか?せっかくテツんとこ来てるんやし」「ナカオ、キクノ、どう思う?」「別にかまへんけど」「お前ら、マジか?よう登るんか?」「ま、いけるやろ」というわけで、ハゲの提案で、還暦過ぎたオジサン4人が生まれて初めての山登りをすることになった。(ちなみにハゲは当時からの渾名で、長髪可だった中学時代、唯一野球部でもないのに坊主頭だったコトに由来する。キクノも本名ではなくて渾名であるがその由来は定かではない)

下調べをして幾つかのことが判明した。三峰山は、標高1235mであること。頂上近くに八丁平と呼ばれる開けた場所があり、そこからの眺望が素晴らしいこと。登山コースは3ルートあるということ。そのうち福本コースが最短ルートだということ。香肌小学校の子供たちが同じような時季に遠足で登っているということ。ということは、軽装・スニーカー・子供の体力でも登れる比較的手頃な山だと推測されること。私たちは、少しでも楽をしたいという想いから最短ルートの福本コースを選んだ。そしてコンビニで弁当を買い込み、その八丁平で雄大な景色を眺めながら昼食をとる、ということを差し当たっての目標とすることにした。

166号線の「三峰山登山道入り口」の標識から、福本の集落を抜けて駐車場へ着くまでおよそ10分。すでに4台の先客が駐車していたが、あと1台なら駐められそうだ。目の前に案内板、そしてここが福本コースの登山口だった。他のコースのことは知らないが、福本コースは、杉木立の間をひたすら進む単調なものだった。道中、見晴らしの良い展望は期待できなかったが、それよりも初心者の私たちは、ここで道に迷うこと、遭難することは先ずあり得ないという事実の方に安堵した。ただただ黙々と歩を進めていけば、いずれ山頂に辿り着くはずである。ところが想定外の急勾配の連続に登山経験ゼロ・還暦過ぎの私たちは苦しめられた。「ちょっとは平らなとこないんか」「杖いるな、杖。杖探そ」「この1町とか2町とか何や?山ってこうやって測るんか?」「ほんなら10町で山頂か?」「ちがうちがう、距離が合わん。まだまだや」「おい、鹿おったで。鹿。子鹿や!下りていきよった」「鹿ぐらいなんぼでもおるて。オレなんかこないだ車でぶつかったがな」「鹿、死んだんか?」「死なへん。あいつら強い」「熊もおるんか?」「熊はおらんやろ。よう知らんけど」「テツ、休憩しよ、休憩」「おーい、みんな休憩や、休憩」この休憩が結局八丁平に着くまで5,6回繰り返されることになる。なさけないこっちゃ。「こんにちわ」…「こんにちわ」途中下山する人と2度すれ違った。2人とも駆け下りて行った。「あの人らはな、これから次の山へ登るねん。県外から来た人は、せっかく飯高まで来たから一つの山だけやともったいない言うて、2つも3つも登るねんて」「ほんまかあ~?」「ほんまほんま。オレらと違うねん。山が好きな人は」しんがりのナカオの姿が見えなくなった。「ナカオー、ナカオー、大丈夫か~?」「気にせんと先行っとって!」「ナカオも往年の姿はないな」「せやな、ラグビー部でスターやったからな」「キクノ、お前のリュック、やたら重そうやな」「昨日の集金、そのまま入ってるし。タブレットと…。バナナと…。みんなの分もあるで、食べるか?」「いらんいらん」「ハゲ、晩メシどうする?」「小坂行こや、小坂」「せやけどホルモン、キクノ食われへんで」「アイツはロースとか、カルビ食わしといたらええ」「明日は筋肉痛やな」「ちがう。あさってや」「お~い、皆さん。あと500メートルです!」「まだそんなにあるんか」「テツ、お前すごいな。なんでそんなにちゃっちゃっと行けんねん」「田舎の人はちがうなあ~」「そうや。田舎の人は最強や」とかかんとか言いながら2時間ほどでようやく八丁平に到着。「テツ、お前の認識まちごてる。子供らが2時間かかったからオレらは1時間半や言うて。あいつらの方がオレらよりはるかに体力あんねんで」「そうかもしれんな。ほな、てっぺん目指そか」「アホか!」3人が一斉に私に向かって叫んだ。「ひとりで行ってこい!」勿論私にも余力は残っていなかった。ただ、そう言ってみたかった、だけなのである。

「お~」「すごいな」「なかなかやないか」「ここはええ。しんどい思いした値打ちはあるな」「う~ん。なにかこう達成感あるな、思わへん?」「船見えるで。おい、船見えるて、船…」「テツの家どこや?」還暦過ぎのオジサンも香肌小学校の小学生たちと変わらないハイテンションなはしゃぎぶり。かなたの水平線は伊勢湾である。天気が良ければ富士山も見えるという。先着していた同じような年頃の夫婦連れに声をかけられた。「お宅ら、どこから登って来やったん?」「福本コースとかいうやつですわ」「元気やねえ~。私らもうあのコースはよう登りませんわ」「じゃあ、お二人は?」「ゆりわれですわ」どうやら私たちの最短コースで楽をしようとした思惑は裏目に出たようである。ま、何はともあれ雄大な景色を眺めながら昼食をとる、という当初の目標は達成されたのである。「上等やろ」「上等、上等」まるでエベレスト登頂に成功したかのような興奮ぶりは気恥ずかしいが、還暦過ぎて初めての山登りならこんなもんだろう、上等である。「インスタにアップするからな、ええやろ?」「アカンアカン。個人情報や」「お父ちゃんのグダグダのありさま、子供にバレたら格好悪いんか?キミらの情報漏洩より飯高の情報を発信する方が大事や」」「好きにせえ」 

彼らと中学校で出会った時、すでにキクノが3か所、ハゲも3か所、ナカオが5か所、そして私が7か所目の自宅だった。つまり都会のサラリーマンの子供たちは、親の都合・事情で引っ越し・転校を余儀なくされ育っていく。したがって、幼馴染みもいなければ、生まれ育った故郷と呼べるものも持たない。親戚付き合いが希薄な家庭も少なくない。さいわい私は、父方・母方の実家が共に松阪市内の殿町・本町であったため夏休みにはよく遊びに訪れた。それでも「ご出身はどちらですか?」と問われると今でも答えに窮してしまう。生まれは名古屋市南区らしいが、伊勢湾台風くらいしか記憶にない。3つになるかならないかで、大阪のウエロクに引っ越した。そういう私たちが、周りが親戚だらけで、先祖伝来のデンパタを守り続け、時には瓦に宝暦と刻印のあるお屋敷に住み、老若男女に関わりなく「ノンちゃん」「ヒーちゃん」と呼び合える関係は、少しばかり羨ましくもあるが、到底理解できるものではない。田舎暮らしというと「豊かな自然に囲まれて」という常套句を連想しがちだが、実は田舎暮らしの魅力は、そういう関係にこそ隠されているのではないかと、ふと思うことがある。「どっか行きたいとこあるか?もう案内するとこないで」「どっこも行かんでもええやないか。ここにおるだけで何かホッとするわ」「近所歩いとったら、知らんオバアチャンから、おはようさんて挨拶されたで」すっかり顔なじみになったナカオとハゲが上林商店で買った地酒と河俣の里で買った野菜をぶら下げて散歩から戻ってきた。「オバちゃんに缶コーヒーもろたで」彼らはこの夏、また飯高にやって来る。「次はどこ連れてったらええんやろか?」

大定峠

国道166号線は、松阪市街の小津町南交差点から西に向かって高見トンネルを抜け、奈良・大阪方面に至る一般国道です。現在も松阪市街の日野町交差点には「左 さんぐう道 右 わかやま道」と書かれた石造りの道標が残っているように、この道は、古くから和歌山街道あるいは紀州街道と呼ばれ、紀州藩の参勤交代路であったばかりでなく、伊勢方面と奈良・和歌山方面を結ぶ重要な街道でした。この166号線は、川俣地区を東西に横断していますが、当時の和歌山街道の道筋と必ずしも一致するものではありません。この和歌山街道の道中、大定峠越えと高見峠越えが難所であったと言われています。大定峠は、飯高町七日市から乙栗子(おとぐるす)へ抜ける峠道にありますが、現在は廃道になっていて使われていません。166号線は、森地区へ抜けて峠道を大きく迂回するように通っています。この古道を乙栗子側から大定峠を目指して歩いてみました。地元の人に尋ねても、その古道を知っている方にすぐには出会えず、忘れられた古道であることを実感しました。ようやく探し当てた入り口は、民家の庭先を抜けて辿り着く場所だったので、その家の方にひと声かけなければ入れませんでした。半信半疑で進んで行くと、荒れ果ててはいるものの徐々に道らしくなってきました。この道を本居宣長も歩いたんだなあ、と感慨にふけりながら半時間ほどで大定峠に到着しました。そして話に聞いていた通り、そこには役小角の祠が祀られていました。生けられていた榊はまだ瑞々しく、辺りの静謐と相俟って厳粛な気分になりました。時折聞こえる鳥たちの囀りと木々の葉のざわめきがすべてでした。

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毎年、ちょうどゴールデンウィークの頃、飯高町七日市の泉谷さんの家の前でお餅撒きが行われます。その縁起も知らず呑気にお餅撒きにだけ参加していたのですが、施主の泉谷勝巳さんによると、ご先祖は、戦国武将鳥屋尾右近将監で、またその後、代々この辺りの街道守をしていた。そのうち鳥屋吉助さんが元禄14年大定峠に役行者の祠を建立した、以来現在に至るまでずっと毎年5月5日に祠にお供えをもってお参りし、その後こうしてお餅撒きをしているのだという。すべて代々の口伝なので古文書のようなものはないのだとおっしゃっているが、そういえば泉谷さんの屋号は鳥屋であって、大定峠の祠の隣の灯籠には鳥屋吉助の銘が刻まれていました。この地域に先祖代々暮らしている人たちはみんな屋号を持っています。今でも屋号で呼び合ったりすることもあります。口伝頼みなのが残念ですが、どうして役小角をお祀りするようになったのか、その経緯は分かりません。ただ、組の人たちも協力してこうして代々受け継がれていることには敬服するばかりです。

※ 役行者(えんのぎょうじゃ)… 役小角(えんのおずぬ)とも呼ばれる。飛鳥時代の山岳呪術者で修験道の開祖とされる。数多くの伝承が残るが、実像は謎に包まれている。